レイキの歴史
開祖・臼井甕男(うすいみかお)氏の経歴
・1865年(慶応元年)8月15日、岐阜県山県郡谷合村(現・岐阜県山県市谷合)で誕生。号は暁帆(ぎょうはん)。 成人後、欧米や 中国に遊学していた。多才で、歴史・医学・宗教経典・心理学・神仙術・易占・人相学にいたるまで深く究めていた。経済的に不遇で、何度も苦境に陥ったが、少しも屈せず鍛錬に励んだ。
・大正11年3月、悟りを求めて京都郊外の鞍馬山に登り、断食修行に入った。21日目の深夜、強烈な宇宙霊気が脳天を貫き、その瞬間、「宇宙即我」、「我即宇宙」の悟りを得た。
同時に、霊気による治療能力を体得、「霊気療法」と名づける。(大正11年4月)
・天啓により超人的霊能力を授けられた使命を悟り、「自分や家族で独占せず、多くの人々に授けて喜びを共有すべきである。」と考え、大正11年4月に東京青山に移転し、「臼井霊気療法学会」を創設。一般治療を行うとともに、教義を定めて霊気療法の公開伝授を行った。非常に盛況で、屋外に長い行列が出来たほどであった。
・大正12年9月の関東大震災で多くの傷病者を救済。道場が狭くなったので、14年2月、中野に移転して、治療や指導を継続した。
・名声は高く、各地からの招聘が多くなる。求めに応じ各地に赴くが、呉から広島・佐賀を経て福岡に至り、ここで還らぬ人となった。大正15年(1926年)3月9日没、62歳。
《臼井先生功徳之碑 より抜粋》
臼井霊気療法の発祥
臼井霊気療法は1865年に生まれた臼井甕男(うすいみかお)という人が始めました。
若いころ、郷里の岐阜県を離れ、各種の職業を体験するうちに、「人生の目的とは何か」と、深く考えるようになりました。
長い探究のあと、「人生の目的は、安心立命を得ることだ」という結論に達しました。
それは「人は宇宙から指名を与えられ、生かされている」という真実を知ること。
「人生で何が起こっても、動揺せず、いつも安らかな心を保ちながら、自分の役割を果たしていくこと」です。
このように理解した臼井先生は、安心立命の境地を求めて、京都の寺で三年間の座禅を行いました。
しかし、めざず心の境地は得られず、ついに死を覚悟して鞍馬山で断食の結果、体内の波動と宇宙の波動が共鳴して、自己と宇宙のとの一体感 が得られ、求めていた境地が完成しました。
臼井先生は、宇宙と共鳴した高い波動をレイキだと直感しました。
そして、「レイキは宇宙の導きの波動であり、レイキと響き合う生き方こそが、健康と幸福への道である」と悟りました。
帰宅の途中、次々と癒しの体験が続き、宇宙から癒しの力が与えられたことに気付きました。
この癒しは、鞍馬山での体験と同様、レイキの波動と響き合うことで、効果的におこるものでした。
「これは、自分の体験を多くの人に分かち合えという、啓示である。誰でもできる手当療法を入り口にして、人生の目的である 安心立命 を伝えていこう」と臼井先生は決意されました。
これを臼井霊気療法と名づけ、「この力を多くの人に伝えたい」と、1922年4月、東京で臼井霊気療法学会を創設し、多くの人に霊気療法を教えました。
臼井霊気療法学会は現在も、臼井先生の伝統を連綿と継承し、伝統霊気と呼ばれています。
西洋式霊気への流れ
国内で伝承されている伝統霊気に対し、西洋式レイキという系統があります。
臼井先生の門下生は約二千人、うち師範(指導者)は二十一人でしたが、臼井先生から最後の師範として認定された 林忠次郎(元軍医・海軍大佐)が、臼井霊気療法をハワイに伝えました。
林先生は、臼井先生の死後、林霊気研究所として独立しました。
ハワイから日本へ病気治療に来た、高田はわよの難病が完治したあと、彼女は林先生からレイキを学び、林霊気研究所のレイキマスターとなりました。
彼女はハワイでレイキ治療を行い、二十二名の霊気マスターを養成しました。
高田先生の死後、指導者たちは二つの団体に分かれ、レイキの普及を始めました。
レイキの学びやすいシステムと、高い効果性が多くの人に認識され、瞬く間に世界中に普及しました。
現在、レイキ実践者の数は、五百万人以上といわれています。
このように臼井霊気療法は、日本からハワイに渡り、アメリカから世界各地に伝わるうちに、少しずつ変化していきました。
日本にも一九八〇年代の後半から、さまざまな考えやテクニックを持つ西洋式レイキが伝えられました。
「レイキ 宇宙に満ちるエネルギー」 土居 裕(現代レイキヒーリング協会) より
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